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ポップカルチャーのブログ

「THE MANZAI 2012」

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お久しぶりでーす!今回は「THE MANZAI」について雑感でございます。
全体を通しての感想は、「ハイコンテクスト化」と「ポスト漫才化」と「M-1回帰」なんてことを思った。

ハイコンテクスト化

例えば、NON STYLEの「ボケが多いわ」、スーパーマラドーナの「これはこれでそこそこ漫才になってるやろ」「オレ、師匠になって、こんなシュールなネタやりたないんや」、さらには審査員ラサール石井の「今回、僕は手数で評価してないんですよ」。


漫才賞レースの決勝大会で、これだけメタ視点がふつーに入ってくるって「M-1」が定着する以前では、たぶん無かったと思う。「いや、あったよ!」と言われたら、その時点でこのテキストはゲームオーバーとなります…。ご清聴ありがとうございました。
とりあえず話を続けます。要するに「M-1」以降の漫才が今や”文脈”になってて、作り手はもちろん、受け手の僕らも過去の漫才を踏まえて見るようになってきてる。
その結果、みんなが前提知識を持つ→ハイコンテクスト化が進む→メタ視点が出てくるっていう流れを今年は強く感じた。
だって、NON STYLEってそういうイメージ(メタ視点や批評性)無かったでしょ?逆に言えば、”手数”や”大きなボケ”に象徴される「ある技術の強度を高めていく」という方法論が限界に来てるのかな?と。


ポスト漫才化

手数を増やすみたいな技術的な強度を高める方法論の次の段階として、漫才というフォーマット自体を疑い始めたように見えるスタイルが散見された。もしくは「漫才を問い直してる」とも言える。
「そんなことは、それこそ「M-1」の歴史として、ずっと新しいスタイルが提示されてきたじゃないか!何を今さら言ってるの?このAKBオタクが!」という批判が出そうだけど、それについては「確かにAKBは好きだけど、℃-uteはもっと好きだ」と反論したい。
話を戻します。新しいスタイルの在り方がこれまで以上に漫才というフォーマットに対する根源的な問い直しになってるのでは?というのが、僕の仮設です。
例えばボケ・ツッコミという役割分担すらもはや曖昧になってきてる。


アルコ&ピースが象徴的。「あれは漫才ではない」という声があるみたいだけど、彼らは漫才というフォーマットを盲目的に取り入れてないので、それも当然(つーか、主戦場はコントなんだよね)。
まずボケ・ツッコミの分担が曖昧。本来はボケてない人にツッコミの体裁で一方的に説教し続けることで、途中からツッコミがボケへと変容していく。
ここまでなら「似てる」とも言われるX-GUNもやってはいる。アルピーは漫才コントという様式をメタ化して、フェイクドキュメンタリーふうに現実の自分たちの置かれた状況に逆流入させてから、最後にベタへと回帰するかのようにコントで終わる展開力が凄い。恐ろしく批評的で戦慄した。これは既存の漫才とは違う”ポスト漫才”とでも呼ぶべきものじゃないかと。音楽のポストパンクみたいな。
演劇のシベリア少女鉄道に、漫才コントを1時間近くやり通す、どーかしてる作品があったけど、それに匹敵する衝撃だった。


優勝したハマカーンの新スタイルも単純なボケ・ツッコミでは無い。2人のボケ・ツッコミの役割が以前とは逆転してるように見えるけど、浜谷の「お前女子じゃねーだろー!」というツッコミはボケとも溶解していて判別が簡単にできない。神田もボケなのか?というと、女子のあるあるネタとかクリケットの正確な情報を伝えてるだけで、実は発言そのものは一切ボケてない。
その代わり性別のズレという"設定"がフリとして機能することでボケになってて、そこに浜谷がツッコミを入れながら、それがボケにもなるという非常に複雑な構造になってる。漫才のプログレ
余談だけど、結果的にこのスタイルでBL感をちょっと出してるのは恐らく意識的で、あざといなぁと思った。でも、一番優勝して欲しかったので、おめでとうございます。


オジンオズボーンはボケ・ツッコミの役割分担こそ明確だけど、「漫才のボケは既に出し尽くされてるので、ツッコミで変化を付ける」という近年の流れを問い直した。
フリの文脈とは関係なく、ただ単語に反応して勝手に自己拡散していくボケ。文脈から解放されて自由を手にした篠宮が、ギャグマシーンと化してボケを乱射しまくるスタイルを作ってしまった。
自由なボケというと、マヂカルラブリーとかもいるけど、篠宮のボケは言わば1人連想ゲームなので、手数も打てるのが強い。”ボケ2.0”と呼びたい。
このスタイルって何となくナイツの”言い間違え”の奇形化みたいに見えなくもない。これどんな過程で発見されたのか?凄く知りたい。


となると、笑い飯はずっと前からポスト漫才的なことをやってたんだなぁと今さら気づいてみたりもした。


M-1」回帰

という訳で、今年の「THE MANZAI」は去年よりもスタイルの革新性を提示する意図を明確に感じた。ちゃんとテンダラートレンディエンジェルみたいなオールドスクールでキャラの立った漫才も重宝されてたし、磁石、ウーマンラッシュアワーエルシャラカーニは漫才のフォーマットを壊さずにまだ技術の強度で勝負できる可能性を見せた(ここで収まりが悪いのが千鳥なんだけど、それ故に今年も存在感を示せてたと思う)。
でも、結果的に良くも悪くも去年のHi-Hi躍進に象徴されるフジテレビらしいバラエティ感は減退してしまった印象がある。
これは去年「M-1」との違いを批判的に浴びた結果(僕も去年は否定的だった)、少し軌道修正をしてきたのかな?と。審査員に「M-1」人脈を入れてきてるのも含めてそう感じた。


こうなると、無責任な僕は、あくまでフジテレビのバラエティ感を継続した「THE MANZAI」を見たかった気もする。Hi-Hi、新宿カウボーイ、レイザーラモンダイノジ中川家あたりが入ってたら…と。
だって、ボケとツッコミの役割すらも曖昧になってきてるので、これ以上スタイルの革新性が強調されると、前衛芸術的な方向になりかねない(その強調に僕も加担してる訳だけど…)。そのうち、ジョン・ケージの”4分33秒”みたいな一言も喋らない漫才とか出てきそうで恐い…。



新宿カウボーイみたいなコンビを来年はもうちょっとフックアップして欲しいっす。


軽く書くつもりが長くなってきたのでこの辺で。 無理やりな見立てをして、すんません…。でもこれは、「批評とは何か?」という僕なりの答えでもあります。
次回はお蔵入りしかけてるアイドルポップ論を更新予定です。