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ポップカルチャーのブログ

漫才とコントの違い

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どうもこんばんは。トランプマンです。
毎年、お笑い賞レースの時期になると漫才とコントの違いについての混乱をネットで目にする。
よくあるのが「これは漫才じゃなくてコントだ。だから、漫才の大会に出るのはおかしい」という意見。今年のM-1予選でもアルコ&ピースのネタについてツイッターで同じ声を見かけた。
昔から「漫才とコントの違い」については度々議論されてきたみたいだけど、その上で「決定的な定義は未だにない」という声も多い。果たしてそうなのだろうか?というのが今回のテーマ。

一般的な定義

”漫才とコントの違い”でググるとだいたい以下のような定義が出てくる。

「漫才はボケとツッコミによる掛け合い。コントは寸劇でキャラクターがあり、衣装やメイク、小道具を使う」


この定義は大筋で正しいんだけど、どうしても説明しきれないケースが出てしまう。
例えばキングオブコントで優勝した東京03はコント中にボケとツッコミの掛け合いを見せるし、M-1で優勝したサンドウィッチマンは漫才の途中で寸劇を始める(いわゆる”漫才コント”と呼ばれる手法)。あるいは、髭男爵は貴族の衣装を着て、小道具のワインを片手に漫才をする。



だからか、「真ん中にマイクが置いてあったら漫才。無ければコント」なんて定義も目にしたけど、これはいささか乱暴すぎて両者の本質を捉えた説明になってない。
他にも「テンポや抑揚を大事にするのが漫才。それにこだわらないのがコント」「袖から出てくるのが漫才。最初からステージ上にいて始まるのがコント」「1人ではできないのが漫才。1人でもできるのがコント」などなど、いろんな定義がある。
でも、どれも主観を排除しきれず感覚的だったり、あるいは形式ばかりに着目していて腑に落ちない。

”人格”による定義

今のところ自分が最も本質に迫ってると思う「漫才とコントの違い」は、ネタ中の”人格”で定義する考え方だ。
具体的には、冒頭で紹介した一般的な定義にある「コントは寸劇でキャラクターがあり」という部分の”キャラクター”だけをシンプルに見て判断していく。
漫才は誰かを演じていない"素の人格"で舞台に立つのに対して、コントは医者や患者など常に誰かを演じながら"他者の人格"で舞台に立つ。ネタ中の人格が素なのか他者なのかで漫才かコントを定義する。


これは一定のお笑い好きには共有されてる考え方だと思う。でも、誰が最初に言い出したのかは調べても分からなかった(ご存じの方がいたら教えて下さい)。


ただし、この定義だと上述したサンドウィッチマンのような漫才コントの場合はちょっとややこしい。つまり、漫才(素の人格)で始まって、途中からコント(他者の人格)になり、最後に再び漫才(素の人格)に戻って終わるような場合。一体どっちなんだ?と。


これはちょっと遠回りしたロジックで解決するしかない。
まず「最初から最後まで他者の人格でネタをするのがコント」であると、先にコントの定義を固めてしまう。その上で「素の人格から始まれば、ネタの途中で他者の人格になっても漫才」と漫才については自由度を高めた定義にする。
そもそも”漫才コント”という手法により漫才がコントを飲み込んでしまっていることが、この問題を最も複雑にしてる。だから、あえて定義に非対称性を持たせるという後付的な解決策。


この定義に従えば、漫才の途中で不動産屋と客のコントが始まっても素の人格から始まってるからサンドウィッチマンは「漫才」だし、最初から最後まで3人がラーメン屋の店員と修行先の店長を演じてる東京03はボケとツッコミの掛け合いがあっても「コント」になる。そして、髭男爵はコントみたいな衣装で小道具もあるけど、ずっと素の人格なので「漫才」。
うん、一般的な定義で説明できなかった部分が全て解消できた。めでだし、めでたし。

でも残る問題点

申し訳ありません。先ほどの、めでたし、めでたしというのはウソでした。実は人格による定義には2つの問題点が残されてる。


一つは、”人格”が素なのか他者なのか判断が難しいケースが考えられること。
あえてアクロバティックなケースを持ち出すと、例えば「コント漫才師」というネタがあった場合、どうするのか?つまり、2人組のコンビがコントの中で漫才師を演じながら、まるまる一本の漫才をやって、最後まで漫才師を演じ切ったまま終わった場合に、これを「最初から最後まで他者を演じているのだからコント」だと言い切って良いのかどうか?目の前で行われているのは"漫才そのもの"でコントとの見分けは不可能。


ジャルジャルの漫才が「漫才をやってるコントに見える」とよく言われるように、ここまで極端ではなくても素の人格と他者を演じている人格の判断が難しいケースが出てくる可能性は否定できない。
なんか憲法の解釈論みたくなってきた…。


もう一つは、コントにセリフをちょい足しするだけで簡単に漫才コントが出来てしまう問題。
「素の人格から始まれば、ネタの途中で他者の人格になっても漫才」という漫才の自由度を上げた定義は極端な話、ネタ4分の内、漫才1分・コント3分でも漫才として成立するということ。そして、実際にそういうネタはたくさんあるし、最初はコントだったネタをこのやり方で漫才に転用して使う芸人もいる。


例えば結婚のプロボーズをテーマにしたコントがあったとする。その冒頭に「俺、将来プロボーズがちゃんとできるか心配だから、ちょっと練習させてくれない?今からプロボーズするから、お前は彼女をやって」「うん、分かった」のひと言を冒頭に入れてからコントをやって、最後に「もういいよ!」「ありがとうございました」を足せば漫才コントの出来上がりとなってしまう。


僕はそれでもべつに構わないと思ってるけど、冒頭で紹介したような声もある。自衛隊はどう見ても実力ではなく戦力じゃないかみたいな感じ。この定義ではそこを完全に払拭するのは難しい。
彼らを納得させるには、しゃべくり漫才しか認めずに漫才コントは事実上のコントだと見なして、漫才賞レースへの参加は禁止するしかない。
でも、そこまでやる意味はあるのだろうか?

そもそも笑いって

そのネタが漫才・コントのどちらが相応しいか?なんて笑いの本質とは全く関係ない。そもそも笑いはスタイルではない、アティチュードだ!とジョー・ストラマーふうに言ってみる。


という訳で、「漫才とコントの違い」について、「決定的な定義は未だにない」というのが僕の結論です(ここまでの約3,000字は何だったのか…)。
でも、そう考えると、何がコントで何が漫才なのか実は曖昧なまま「コント日本一」「漫才日本一」を決める大会が毎年行なわれてるのはある意味で面白い。実際にM-1の予選1回戦とか行くと、誰がどう見てもコントな人たちがいたりするし…。

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